日本細菌学の父!新千円札に選ばれた「北里柴三郎」について詳しく解説!

日本細菌学の父!新千円札に選ばれた「北里柴三郎」について詳しく解説!

2024年7月、新しいデザインのお札が発行されました。新千円札の顔として抜擢されたのは、明治時代に活躍した医学者、北里柴三郎という人物です。
では、北里柴三郎とはどのような人物なのでしょうか。本記事では、北里柴三郎の人物像、具体的な活躍について解説していきます。

目次

北里柴三郎の生い立ち

オランダ人医師との出会い

北里柴三郎は、1853年に現在の熊本県で生まれました。
幼いころから儒教をはじめ、漢籍や国書など幅広く学んでいた柴三郎は、官立医学研究所兼病院(現在の熊本大学医学部)へ入学しました。ここでのオランダ人医師のマンスフェルトの出会いによりで、北里柴三郎の人生を大きく変えます。彼は当時、それほど医学の学習意欲が高いわけではありませんでした。在学中は「医学」より「語学」の学習に力を入れており、その勉強熱心な姿がマンスフェルトの目に留まったのです。
彼が医学の道を志したきっかけは、オランダで発明された顕微鏡をたまたま覗いた時でした。多様な形をした細菌が動き回っている光景を目の当たりにし、顕微鏡の中の新たな世界に感銘を受けた北里柴三郎は、ここから本格的に医学の勉強を始めました。医学にも熱心に取り組み始めた彼をマンスフェルトは助手に抜擢し、解剖学をはじめ様々な授業の通訳を彼に任せます。これにより、北里柴三郎の知識はより高まっていきました。

ベルリン大学での偉業

東京医学校を卒業すると、柴三郎は内務省衛生局へ入局しました。その2年後に、衛生局の上司の勧めで、ドイツのベルリン大学へ留学します。
ベルリン大学留学中に、柴三郎は世界で初めて破傷風菌だけを取り出す「破傷風菌純粋培養法」に成功します。翌年には「破傷風菌抗毒素」を発見し、医学界に衝撃を与えました。さらに菌を少しずつ注射しながら血清に抗体を作る「血清療法」を開発し、大学の仲間とともに「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表します。
この論文がきっかけで、欧米の研究所や大学から「ぜひうちの研究所や大学に来て下さい」とスカウトされますが、柴三郎は「日本の医療をよくして人々を救うことが自分の使命である」と、これらを全て断り、日本へ帰国します。

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北里柴三郎が日本医学の礎を築くまで

伝染病研究所の設立

日本へ帰国後、彼は様々な人に「日本に伝染病研究所を作るべきだ」という考えを発信するようになります。一方、多くの私立大学や専門学校の設立に関わった福沢諭吉は、日本に西洋医療が必要だと考えていました。当時の日本はコレラや結核などの伝染病が流行し、たくさんの人が命を落としていました。そこにドイツ帰りの北里柴三郎が現れ、これからの時代に必要な人材だ、と察したのでしょう。
福沢諭吉は、彼の伝染病研究所建設の考えに共感し、たくさんの支援を行います。そのおかげもあり、1892年、東京の芝公園内に小さな伝染病研究所が設立されました。翌年には日本最初の結核専門の病院も設立し、結核の治療と予防に力を注ぎました。
また、香港で起きたペストの調査のため現地に派遣され、ペスト菌を発見するなどの快挙も成し遂げています。

伝染病研究所の管轄問題の背景

私立伝染病研究所は3年後、内務省が管理する「国立伝染病研究所」(現在の東京大学医科学研究所)となり、北里柴三郎は本格的に伝染病予防と細菌学の研究に取り組みます。
当時、国立伝染病研究所は内務省の機関でしたが、所長の北里柴三郎に何の相談もなく、突然文部省の管轄になることが決定してしまいます。この研究所は、福沢諭吉をはじめ、北里柴三郎の熱意と能力に共感した人たちの支援によって建てられた施設です。それが突然、相談もなく文部省管轄になることを知らされたため、きっと彼は相当ショックを受けたことでしょう。
北里柴三郎はこれに猛反対し、所長を辞任します。この時、柴三郎と一緒に国立伝染病研究所をやめてしまった研究員がたくさんいたそうです。

北里研究所の設立

伝染病研究所が文部省管轄になったことをきっかけに、彼は新たな研究所「私立北里研究所」(現在の北里大学の母体となる機関)を設立、その後「慶應義塾大学部医学科(現在の慶應義塾大学医学部)」の初代学長に就任します。後進を育てることにも力を入れていた彼は、後に赤痢菌を発見した志賀潔や、黄熱病の病原体を発見した野口英世など、多くの優秀な弟子を輩出しています。
明治時代以降、日本にたくさんの医師会がありましたが、1917年に全国規模の「大日本医師会」(現在の日本医師会)が設立され、北里柴三郎は初代会長になります。ここでは組織の運営にあたっています。

北里柴三郎の功績

北里柴三郎は研究者として、また教育者としても多くの功績を残しています。彼は伝染病研究所でたくさんの研究者を育てるとともに、慶應義塾大学医学部の設立にも尽力しました。彼の指導のもと、多くの研究者が日本医学を支える優秀な人材となりました。
また、公衆衛生の大切さも主張していた彼は、人々の健康を守るための制度や仕組み作りにも貢献しました。これらの活躍は、日本の医療制度の発展に大きな影響を与えています。

北里柴三郎が残したものは、今もなお日本の医療業界を支え続けています。彼の考え方・哲学は、多くの医師や研究者によって受け継がれおり、次世代へと繋がっています。

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まとめ

北里柴三郎は、医学者として非常に多くの業績を残しています。「病気の未然予防と治療が医者の使命」という信念を貫き、常に自分の研究に真摯に向き合っていました。彼の医学への情熱は、日本の医療基盤の礎となり、感染症の予防と治療における様々な問題を解決するための指針となっています。今後も、北里柴三郎の考えは、日本の医療業界に影響を与え続けることでしょう。

いかがでしたか?
今回は、北里柴三郎の人物像と活躍について紹介してきました。新千円札を見かけた際は、北里柴三郎が遺したたくさんの遺産について是非思いを巡らせてみて下さい。

この記事を書いた人
趣味:お城巡り

学習アドバイザー 広田

関西大学大学院を卒業後、小6・中3・高3の受験生を主に指導をしてきました。学生の悩み相談を受けているうちに勉強に悩む子を救ってあげたいという気持ちが強まり学習アドバイザーとなりました。勉強に悩む保護者さまやお子さんにお役に立てる記事を配信していければと思います。
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