女性教育の先駆者!新五千円札に選ばれた「津田梅子」について詳しく解説!

女性教育の先駆者!新五千円札に選ばれた「津田梅子」について詳しく解説!

2024年7月、新しいデザインのお札が発行されました。新五千円札の顔として抜擢されたのは、明治時代に活躍した教育者、津田梅子という人物です。
では、津田梅子とはどのような人物なのでしょうか。本記事では、津田梅子の人物像、具体的な活躍について解説していきます。

目次

津田梅子の生い立ち

6歳でアメリカに留学

津田梅子は1864年、現在の東京都新宿区で生まれました。実家は、徳川家に仕えた武士の家系です。
彼女は、父親の津田仙が応募した「岩倉使節団」の女性留学生の一人として、6歳という幼さでアメリカへ留学します。留学生の人数は5人、最年少だった梅子にはほとんど英語の知識はない状態でした。
アメリカ到着後、津田梅子は日本弁務使館の書記を務めるチャールズ・ランマン家に預けられました。彼女はとても頭がよく、ラテン語や数学、天文学など様々な学科で優秀な成績を残しました。アメリカ人としての教養を身につけ、アメリカ人として立派な品格を身につけていったのです。

女性に対する厳しい現実に直面

彼女は11年間をアメリカで過ごし、17歳の時に同じ女性留学生で仲の良い山川捨松(やまかわすてまつ)と共に帰国しました。
日本で女性のための学校をつくりたい、教師になりたい、そのような熱い思いを抱いていた津田梅子は、ここで日本の厳しい現実を目の当たりにします。日本での女性の地位の低さ、女性に教養は不要であるという考え方、親が決めた相手との結婚。女性は結婚するほか道がないとも思える現実、アメリカで培った教育を日本で活かすことができないという現実に、彼女はひどく落胆しました。

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津田梅子が女性教育を切り開くまで

伊藤博文の勧めで英語の教育者に

夢を諦めきれない彼女に、転機が訪れます。明治政府が日本の近代化アピールの場として開催したとある夜会で、最高実力者の伊藤博文と再会したのです。(留学当時、伊藤博文と津田梅子は出会っている)
伊藤博文は彼女に「桃夭女塾(とうようじょじゅく)」で英語の教育者になってほしいと手紙でお願いしました。ようやくアメリカでの学びを活かすことができると喜んだ彼女は伊藤博文の家に住み込み、奥さんや子供、桃夭女塾の生徒に英語を教えました。それと同時に、下田歌子(実践女子学園の創設者)からは日本語を学びました。

アメリカへ再留学

1885年、彼女は「華族女学校(のちの女子学習院)」の教師として働き始めました。アメリカで学んだことを活かそうとやる気に満ち溢れていた彼女ですが、華族女学校はマイペースなお嬢様が多く、なかなか自分の思う教育ができませんでした。
その頃、留学時代の友人が英語教師として来日しました。アメリカで再度学び直したいという思いを打ち明けた彼女は、友人の後押しもあり、再びアメリカへの留学を決意します。私立女子大のブリンマー大学に通い、留学時に発表した「かえるの卵の発生」に関する論文がイギリスの学術雑誌に掲載されました。これは、日本人女性初の快挙です。

念願の学校を設立

日本へ帰国後は、華族女学院での教職を続けながら、明治女学院講師も勤めました。さらに女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授も兼任します。その合間には、アメリカのデンバーで開催された万国婦人連合大会に、日本婦人代表として演説も行いました。この演説で高評価を得た彼女は、英国やパリにも訪問し、ヘレン・ケラーやナイチンゲールと面会します。彼女らの刺激を受け、日本女性の高等教育へ力を注ぐ決意をより固めていきました。

1899年、「高等女学校令※」が明治天皇から命令されます。津田梅子はかつての留学生仲間だった大山捨松や瓜生繁子、さらに新渡戸稲造などの協力を得て、華族女学院を退職後、ついに「女子英学塾(現在の津田塾大学)」を設立しました。英語をはじめとした様々な知識を教え、男性と並べる実力を養うことができる学校を目指しました。
津田梅子はなかなかの熱血教師だったようで、予習なしでは授業についていけないレベルだったそうです。一方で、毎週土曜は生徒たちと一緒にご飯をつくって食べたり、歌や踊りで交流を深めるなど、アットホームな雰囲気もあったと言われています。

高等女学校令 とは

中等教育を受ける機会を女性にも与えなさい、という命令。

津田梅子の最期

女子英学塾の運営が安定した頃から、梅子は病気がちになってしまいます。高い教育が評価され入学希望者が増えたことから、東京の広い土地へ校舎を移す計画が立てられていましたが、完成を見届けることなく、津田梅子はこの世を去りました。約1,000人の会葬者が、彼女の最期を見届けました。

1931年、女子英学塾は小平キャンパスへ移転し、その後、学校名を「津田英学塾」としました。戦後には「津田塾大学」と改名し、現在に至ります。

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まとめ

津田梅子は、日本における女性教育の先駆者として活躍しました。わずか6歳でアメリカへ留学し、帰国後は日本での女性格差や学んだことを活かせないことによる焦燥感など、彼女には様々な困難があったと思います。そのような厳しい状況でも諦めず、最終的には教師になることと女性のための学校をつくるという夢を成し遂げました。彼女の人生は、きっと今後も多くの女性の希望となることでしょう。

いかがでしたか?
今回は、津田梅子の人物像と活躍について紹介してきました。新五千円札を見かけた際は、津田梅子が掲げた「未来を支える優秀な女性を育てたい」という理想について思いを巡らせてみて下さい。

この記事を書いた人
趣味:お城巡り

学習アドバイザー 広田

関西大学大学院を卒業後、小6・中3・高3の受験生を主に指導をしてきました。学生の悩み相談を受けているうちに勉強に悩む子を救ってあげたいという気持ちが強まり学習アドバイザーとなりました。勉強に悩む保護者さまやお子さんにお役に立てる記事を配信していければと思います。
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