【歴史】戦国時代の日本~織田信長編~
今回は、戦国時代の代表的人物である織田信長について解説していきます。
(戦国時代は複雑なので、特に歴史の流れの中心人物であった人のみに注目して進めていきます。戦国時代が好きな方にとっては内容が薄いと思いますが、ご承知ください)
織田信長とは
応仁の乱が終わり、約70年。いきなり16世紀後半まで進んでいきます。こんな長い期間をスキップする理由ですが、この期間でそれぞれの国で戦い合ったりはするものの、実質的な歴史の流れには関係してこないからです。次の時代への一歩は、織田信長(おだのぶなが)から始まります。
織田信長は尾張国(現在の愛知県)で戦国大名の家に生まれ、1551年に父であり当主であった織田信秀が亡くなると、いよいよ尾張国の大名となります。
織田信長の凄いところは、「天下布武」を掲げていたことでした。天下布武とは「天下(世の中すなわち日本)を武力によって平定する」ということです。
戦国時代は各所各所で戦が絶えない時代であったので、殆どの戦国大名は自分の国で精一杯という状態でした。その中で、このような大義を示したことはとんでもないことだったのです。
そんな彼の躍進は桶狭間の戦いから始まっていきます。
桶狭間の戦い(1560年)
1560年、三河国(現在の愛知県)や遠江国・駿河国(現在の静岡県)を治めていた今川義元と桶狭間で対峙することとなります。これを桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)といいます。
この時の織田信長の軍勢は3000-5000人だったと言われているのに対し、今川義元の軍勢は25000-45000人と言われています。ざっと10倍近い軍勢差があり、普通に考えたら今川義元の圧勝で終わるはずです。
ところが、織田信長は少人数で今川義元本体の軍に奇襲を仕掛け、今川義元を殺したことで今川軍の戦意を削ぐことに成功し、戦いに勝利してしまいます。
この戦いによって勢いづいた織田信長は、勢力を西に広げていくこととなります。
その後、1567年には稲葉山城(岐阜城)を攻め落としたことで勢力を北に伸ばし、さらにその北にいた浅井・朝倉軍を攻め落とし(1570年)ていきました。
\小・中・高校生の勉強にお悩みのあるお子さん・保護者様へ/
\小・中・高校生の勉強にお悩みのある方へ/
比叡山焼き討ち(1571年)
次に行なったのは、なんと寺の焼き討ちでした。比叡山には延暦寺という天台宗の総本山がある由緒ある寺がありましたが、これを灰になるまで焼き討ちにしたのです。この理由は、浅井・朝倉軍を倒した後、この延暦寺に逃げて匿っていたからでした。また、ここには元から僧兵と呼ばれる兵士が多数いて、大名と張り合えるくらいの軍事力を持つ武装勢力でもありました。その周辺への街に対する影響力は凄まじく、織田信長にとって邪魔でしかなかったのです。
室町幕府の滅亡
ここで、室町幕府が登場します。
そういえば、室町幕府ってどうなってたんだっけ?と頭の片隅に思っていた人がいると思います。室町幕府はこの頃まで(一応)存在していました。存在しているとはいっても、もはや国をまとめ上げるような権力はなく、朝廷のように象徴的な意味しか持ち得ていませんでした。
とはいっても国の名目上トップである「将軍」なので、将軍からのお墨付きを得ることは権威を示すという意味がありました。なので、戦国時代は様々な大名が京を目指し、幕府のお墨付きを貰い、あわよくば将軍の座を狙おうと考えていたのです。
そんなこんなで、織田信長は1568年に足利義昭を将軍にし、政治の世界からは追い出し、実権は信長が握る、という状況を作り出します。
これを足利義昭は良しと思わず、周りの諸大名に対して倒すように命じ、包囲網を作ろうとします。(浅井・朝倉との戦いはこのような背景があったとも考えられますね!)
そんな中、織田軍は甲斐国(現在の山梨県)を治めていた武田軍に三方原の戦いで敗れ(1573年)、
「よし、このまま織田軍を倒してしまおうぞ!」
と義昭は兵を挙げますが敗北し、結果として京を追い出されることとなります。これにより、室町幕府は幕を閉じることとなりました(諸説あります)。
\小・中・高校生の勉強にお悩みのあるお子さん・保護者様へ/
\小・中・高校生の勉強にお悩みのある方へ/
安土城と楽市楽座
武田軍を鉄砲隊で打ち負かした長篠の戦い(1575年)の1年後、近江国(現在の滋賀県)に安土城を築き、城下町を開きました。この城下町などでは楽市楽座という経済政策を行いました。
これはどのようなものかというと、一言でいえば、「自由な市場を開こう!」というものです。
これまでの経済は寺社が牛耳っていたり、座と呼ばれるギルドのような集団に入らないと商売が出来なかったりしました。このようなものを撤廃して、個人で自由に商売できるようにしよう!としたのがこの政策です。
キリスト教との関わり
安土城下では、もう1つ特徴的なものがありました。それは、キリスト教の関連施設があったのです。
この時代の寺社の影響力は軍事力・経済力共に強大であったので、織田信長は仏教を抑えるためにキリスト教を擁護していました(金銭的援助があったとされています)。
そのキリスト教の学校である「セミナリオ」と呼ばれるものが安土城の城下町に建てられたのです。
本能寺の変
この後、立地が良く、寺社として最大勢力であった本願寺を破ると、いよいよ天下統一は近いところまで迫っていました。
ところが、本能寺に泊まっていた際、家臣である明智光秀に謀反(裏切り)をおこされ、自刃することとなります。これを本能寺の変といいます。1582年の事でした。
織田信長は、結局天下統一を成し遂げる事ができぬまま、その生涯を終えてしまうのです。しかし、その家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)がその天下統一を達成することとなります。