【歴史】江戸中期の政治改革
今回は、江戸中期の政治改革を見ていきます!
江戸時代は260年もの長い期間に渡って続いた時代でしたから、さぞ幕府も世の中も安定していたんだろうと想像しますが、実際はそうではありません。
特に、幕府の財政(収入と支出)は火の車で、常にお金が足りなくて困っていたのです。
どうしてそんなことになってしまったのか、そして、それに対して改革を行った将軍や重鎮は何を行なったのでしょうか。
テスト対策としては、「誰が」「いつ」「何を」したか整理して暗記することです!
特に人物と、その人物が行った改革の内容は、頻出問題です!
今回は、以下の改革の内容と結果を解説します!
- 徳川吉宗 “享保の改革”
- 田沼意次
- 松平定信 “寛政の改革”
- 水野忠邦 “天保の改革”
そもそも、なぜ江戸幕府のお金が足りなくなったの?
冒頭でも触れましたが、江戸幕府の財政はどんどん悪化していきました。
その理由はなぜでしょうか?
複数あるので、順番に見ていきましょう!
1.江戸幕府には金銀と米しかなかった
江戸幕府は米を各地から年貢として納めさせ、それを財源としていました。(米を今のお金の代わりだと思って下さい。)
すなわち、米の価値が高ければ高いほど、お金持ちになれるという事です。
そのような中で、全国の百姓たちは、新田開発や農業用の道具の進化を活かし、どんどん多くの米を作りました。
それを江戸などの大都市で売って小判(お金)に替えていったのですが、みんながたくさん米を作っていったことから、江戸にある米の量が多くなりすぎてしまいました。
すると、米の価値は下がっていきます。
その結果、江戸幕府が持っている大量の米の価値が下がり、貧しくなってしまった、という事です。
2.武士が増えすぎた
武士というのは、戦国時代までは戦うことに存在意義を持っていました。
戦って得た領地を分け与えることで、将軍と武士の関係が出来ていました。(これを鎌倉時代は御恩と奉公と言っていましたね。)
ところが、江戸時代に入ると戦いは急激になくなってしまいました。
平和な世の中では、武士という存在は持て余してしまいます。
さらに、戦で死ぬこともなく、特権的な身分は与えられ、子供に武士という身分が引き継がれるので、その数はどんどん増えていきました。
武士には家禄と呼ばれる給料が渡されていたので、それがどんどん膨らんでいくと、、あとは想像にお任せしましょう。
3.サービス業・ぜいたく品が増えた
江戸城下は経済的にとても発展しました。
というのも、平和な世の中ですから、腰を据えて様々な職業ができ、商業によって大成するものが続々と増えていったのです。
そんな市中の取引を米でやるわけにはいきませんから、ほぼ100%貨幣が用いられていました。
現在の私たちの売買と変わりません。
しかし、幕府は未だ納税を米に頼っていました。
これがどう問題なのかというと、いくら市中の経済が良くなっても、そこから得られる税というのは殆ど変わらないのです。
もし、幕府が商業による税を中心にしていたら、商業の発展と共に納税も増えて、赤字とまでは行かなかったかもしれません。
このような社会構造の変化についていけなかった幕府は、なんと第5代将軍の頃くらいからもう財政難に陥りはじめ、これは江戸時代の終わりまで続きます。
では、三大改革と田沼の政治を時系列でみていきましょう!
第8代将軍徳川吉宗の“享保の改革”
幕府の財政が悪くなっていったのを、将軍も見て見ぬふりをしていたわけではありません。
第8代将軍の徳川吉宗が行った享保の改革は「質素倹約な生活をしよう!」というものです。
徳川家康の時代に戻そうということです。
改革の内容と、その結果に分けてみていきましょう!
改革の内容
1.質素倹約の徹底
幕府の財政を安定させるためには、支出を減らし、収入を増やす必要がありました。
支出を減らすためには倹約をしなければいけません。
将軍である徳川吉宗自身も倹約をし、武士たちにも倹約を求めることによって、支出を減らしていきました。
2.年貢の徴収強化
支出を減らすだけでなく、収入を増加させることも財政安定の為に必要です。
そこで、百姓の年貢を五公五民にし、さらに収穫高が低くてもある一定以上は払わせる制度も設けました。
これらによって、百姓たちの負担は確実に大きくなりました。
当然、徳川吉宗の百姓からの評判は最悪で、米にうるさい将軍ということから「米将軍」と呼ばれていたそうです。
3.上げ米の制
大名の負担を減らすという名目で、収入を増やした制度です。
具体的には、武家諸法度によって決められた参勤交代を免除する代わりに、幕府に米を多めに納めてもらう制度です。
簡単に説明すると、”1年間江戸で生活しなければならないところを半年にするから、代わりに米を納めて!お願い!”というものです。
これは数年行った後、廃止されました。幕府が藩に頼み込むというというのが、上下関係上あまりよろしくなかったのでしょう。
4.目安箱の設置
これは財政政策ではありませんが、享保の改革の中で徳川吉宗が行ったとして有名です。
これは市中に目安箱というポストを置いて、そこに庶民が幕府に対して求めることを投函するというものでした。
庶民の意見を訊くという事によって、庶民の不満を少しでも和らげ、役人の不正を報告しやすい環境を作りたかったと考えられます。
実際に、この目安箱に投函された内容から、貧困者向けの無料の病院が作られています。。
5.公平な裁判の為の改革
これも大事な政策のひとつで、裁判の公平性を高めようとしました。
その時代は法律のような厳格なものは無かったので、同じ罪だったとしても裁く人によって処罰が変わってしまうという事がしばしばあったそうです。
これを等しくするために作られたのが、公事方御定書です。
これは、今までにあった裁判と、その判決をまとめたもので、前例に基づいて裁判を行うようにさせました。
では次に結果をみていきましょう。
これで幕府の財政は改善したのでしょうか?
改革の結果
このような政治によってある一定の成果を得ることが出来たようですが、収入の方に問題が起こってしまったことで再び変わらぬ財政悪化に陥ってしまうこととなります。
というのも、収入を増加させる方法として米を沢山寄こさせる方法を取りました。(上げ米の制)
しかし、江戸時代は米の価値がどんどん下がっていったので、結局殆ど功を成さなかったのです。
※より簡単に説明すると、こうなります。
元々100あった米の在庫量が125に増えたとします。その間に、米1つの価値が1両から0.75両に下がってしまったとします。
米の在庫量全体の価値を計算すると、元々の価値は100×1=100両ですが、
増えた後の価値は125×0.75=93.8両となり、
在庫は増えたのに価値は減ってしまったことが分かります。
このような結果を受けて、田沼意次や松平定信らが財政を立て直すために、政治に奮闘することとなります。
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田沼の政治
享保の改革の結果を受けて、別のアプローチで立て直そうと考えたのが老中の田沼意次でした。
老中とは将軍直属で政務を行なう役職のことです。
田沼意次は、米や野菜などの農産物による年貢に限界を感じ、当時イケイケであった商業の方に目を向けました。
江戸時代の身分のページで紹介した通り、町人にたいしては税の取り立てが甘く、比較的自由にやらせていました。
そして、百姓からの米のアガリに比べると商業は急成長していました。
なので、イケイケの人たちから取り立てればいいじゃん!と思ったわけです。
改革の内容
1.株仲間を認め、奨励
商業から税を集めたいとは言え、いきなり営業税を増やすと言ってしまったら反発は免れません。
そこで、田沼は株仲間を認め、奨励しました。
株仲間とは商工業者が事業を独占する特権を与えられた同業者組合のことです。
商人にとって”自分の事業を他の人がやれないので、邪魔されることが無い”というメリットがあり、自分の商売を安定して行なうことができるようになります。
市場全体のデメリットとして”独占することによって価格が上昇してしまう”という点がありますが、深入りすると経済学になってしまうので、とにかく株仲間は商売人にとってプラスだということです。
田沼意次はこれを商売人に認める代わりに、上納金として税を大量に収めさせるようになりました。
2.長崎での貿易を奨励→金銀を輸入
長崎での貿易を奨励し、外国から金銀を輸入しようとします。
これによって、貨幣を作る為の金銀を安定させたいと考えたのでした。
これらの政策の結果はどうなったのでしょうか?
改革の結果
田沼意次が商人との悪い繋がりによってお金を得ていた(わいろを得る)として、商人から批判されます。
さらに、天明の飢饉という、米の収穫量が激減し多くの飢餓人を出した時期も重なり、政治の舞台から降ろされることとなります。
老中松平定信の“寛政の改革”
当時、飢饉によってとにかく食料が足りなくなってしまっていたので、まずは農業の奨励に力を入れていきます。
具体的にどんなことを行なったのか、列挙していきましょう。
改革の内容
1.囲い米
飢饉を防ぐために、村で米を蓄えさせるようにします。これを囲い米といいます。
2.帰郷令
読んで字のごとく、故郷に帰らせる令です。
農民たちが江戸に出稼ぎに来ていたので、彼らを故郷に帰らせ、農業に従事させるようにしました。
3.武士向けに棄捐令
借金漬けの武士たち(殆どの武士がそうだった)に対してに借金を帳消しにしたり、減額してあげる令です。
4.朱子学奨励
朱子学を奨励して、それ以外の宗教を禁止しました。
朱子学とは儒教の教えのひとつで、上下関係を何よりも大事にしていることが特徴です。
そのため、封建制度である幕藩体制下の将軍と武士の関係を強固にするのに都合がよかったのです。
これらの政策の結果はどうなったのでしょうか?
改革の結果
このような政策を行なって立て直しを図りましたが、松平定信が求める質素倹約のレベルがあまりにも強く、将軍・庶民から批判され、寛政の改革は終わります。
この改革を以てしても、結局幕府の財政・庶民の暮らしが劇的に良くなることは無く、
贅沢を押さえつけられ、文化が押さえつけられてしまった時期といえるでしょう。
実際、松平定信の政治が終わった後も、しばらく同じような政策が続けられていきました。
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水野忠邦の“天保の改革”
天保の飢饉という大きな飢饉が再び起こり、改革が必要となりました。
老中の水野忠邦が、天保の改革を行います。
内容は今までのものをまねており、新たな社会に対応したものではありませんでした。
改革の内容
1.倹約令
庶民の生活や娯楽を厳しく規制しました。
2.株仲間の解散
株仲間のせいで値段が上がっていると考えたので、物価を下げるために命じました。
しかし、結果は失敗 。
商業をまとめていた株仲間がなくなり、商業の力は衰えていきました。
3.人返し令
農村の再建のため、都市から農村へ人を戻しました。
社会の流れと反しており、失敗に終わります。
4.上知令
江戸・大坂周辺の藩が治める領地を取り上げて、幕府の土地にしようとしました。
それにより、幕府で使用する財源を確保しようとしました。
しかし、大名の強い反発で失敗に終わります。
これらの政策の結果はどうなったのでしょうか?
改革の結果
時代の流れに合わない政策を行った結果、ほとんど失敗に終わります。
最終的に、天保の改革はわずか2年ほどで終わってしまいます。
この後、江戸幕府は終わりを迎える「幕末」の時代に突入していきます。
江戸中期の改革について理解できましたか?
様々な人物が財政や暮らしを改善するために尽力しますが、難しかった様子が感じられたでしょう。
時代の流れをつかんだうえで、重要語句の暗記を進めましょう!