【歴史】古代日本の誕生と邪馬台国
縄文時代の日本は、集落でちょっとした植物を育てたり、貝を食べたりと、定住は出来るけどまだ食料が安定しているとは言えない…といった環境で生活していました。
ところが、あるものが大陸から伝わったことがきっかけとなり、生活のレベルが格段に上がっていくのです。これは現在の我々もよく知っているもので、食べ物があふれている現在でも、誰もが食べた事があるものです。
では、今回は、このような生活の変化は何によって起こったのか、そして集団の変化、そして政権の誕生はどのように起こっていったのかについて学んでいきましょう。
定期テストで困っている人がいたら、赤字で示した部分を覚えてみて下さいね!(覚えやすい様にその背景知識についても解説していますから、余裕があったら読んでみて下さい。)
大陸文明の伝来
日本人が縄文時代で栗や貝を食べていたころには、大陸ではより進んだ生活や技術を持っていました。(4大文明もすべて大陸で生まれていますね。)
そんな大陸の技術を持った中国や朝鮮の人々が紀元前400年頃(2400年前頃)に日本各地にやってきました。
彼らが伝えたものは、青銅器や鉄器といった石器よりもいくぶん強靭な素材の作り方などです。もう一つ一番重要なものがありますが、後から解説しますね。
青銅器
青銅器とは、銅とスズによってつくられる金属器であり、西インドのメソポタミア文明の中で生まれたとされるものです。これが東アジアに伝わり、やがて大陸からの移動で日本までやってきました。
これらは、主に祭り(祈り)の際に用いられたとされており、青銅で作られた銅鐸(どうたく)に農耕や生活に関する絵が描かれているものが発見されています。
鉄器
鉄器は、名前の通り鉄でできた金属器のことであり、これらは農耕の為の道具や武器として使われていました。
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稲作による生活の大変化
大陸より伝えたものの中でも、特に変化をもたらしたのは稲作でした。みんなよく知っているコメです。コメが何で生活に大きな変化をもたらすほどなのか疑問に思うかもしれませんが、その時代の食べ物(木の実、貝、魚、狩った動物)を考えると、相当優秀な食べ物だったのです。
なんといっても、
- 栄養価が抜群に高い
- 保存が可能(一度取ってしまえば、どんな時期でも食べられる)
- 生産性が高い
という要素があるゆえ、これは人々の生活を急激に変えていくこととなりました。
高床倉庫
刈り取った稲を補完するための倉庫として各地で作られていきました。高床にする理由は、湿気から守るためだったり、風通しを良くするためだったり、小動物(ネズミなど)に荒らされることを防ぐためだったりします。なので、これらの建物にはネズミ返しとよばれる、柱に90°に建てつけられた板などが設けられていたりしました。
弥生土器
縄文時代に作られた縄文土器と違い、縄のもようがなく、表面が滑らかな土器が使われるようになりました。これが最初に見つかった土地の名前から弥生土器と呼ばれており、この土器が使われていた時代ということから弥生時代と名付けられました。
この弥生土器にコメが付いたものが残っていたりした事から、調理や貯蔵の為に使われていたとされています。
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土地や水をめぐった争い
稲作によって、人々は前時代に比べて安定して食事にありつけるようになりました。
すると、人の寿命は延びていき、集団の人口が増え、規模が大きくなっていきました。
ところで、今日本の各地で稲作が行われていますが、盛んな地域とそうでない地域があることから、必ずしも日本のすべての場所で稲作が適している、というわけではない事は知っていると思います。
さて、まだ現在と比べて技術が浅いこの時代では、その違いが極端だったので、土地や水が農耕環境的にとっても大事でした。
土地が広く、水も得やすい場所であれば、大量に稲を得て、豊かになっていくでしょうが、土地が狭く、水も得られない場所であれば、あまり稲を得られず、貧しくなっていきます。
縄文時代はみんな平等に貧しかったですが、弥生時代になるとこのように集団間の貧富の差が生まれていきました。
貧富の差が起こると発生するのは、争いです。土地や水を賭けて集団同士が争いを始めます。
この時代の人の骨に矢じり(矢の先端)が刺さっていたり、傷が見つかったことから、実際に争いがあったことが認められています。
このような争いが繰り返された結果、豪族と呼ばれる集団を支配する人々が出てきたり、国という集団が誕生し、段々と日本中に拡大していきました。
邪馬台国
時代は進み、3世紀頃。争いが全国各地で起こっている中で、ある程度の大きさの30国余りが集まり、邪馬台国と呼ばれる連合が出来たとされています。その邪馬台国の女王は卑弥呼と呼ばれ、彼女が日本の争いを止めた、とされています。
この卑弥呼という女王は、西暦239年に現在の中国の一部にあったとされる「魏」という国に使いを送り、魏の皇帝に謁見させたところ、皇帝より「親魏倭王」という称号と、金印、銅鏡100枚を送られたといいます。
称号の中にある「倭」とは、当時の日本の事であり、大陸(中国)の当時の国々の王朝が日本のことをそのように呼んでいました。
これらの内容は「魏志」という魏の歴史書の中の「倭人伝」という項目に記されています。(これらを繋げて魏志倭人伝と呼ぶことが多いです)
日本の古を知るに際して、日本には当時歴史書はおろか、記録等が残されていないことから、中国(魏)の歴史書の日本についての記述はとても貴重で、かつ、日本列島と大陸の間で交流があったことを記す貴重な記録でした。
このようにして、集落の集まりしかなかった日本列島の人々の営みは、稲作などの農耕とともに集団となっていき、小国が出来るまでになっていきました。
この後、豪族という支配層の人々が次々と生まれ、いよいよ日本を一つにまとめる政権が誕生する新しい時代に入っていきます。