【歴史】飛鳥時代・聖徳太子
※厩戸王を聖徳太子としています
今回は飛鳥時代の偉人「聖徳太子」とその功績を中心に、どのようなことが起きたのかをストーリのように分かりやすく伝えていきたいと思います!
重要な部分は赤字で表しているので、テストが近いという人はその部分だけでも覚えて下さいね!
飛鳥時代とは?
古墳時代にヤマト政権が生まれ、これが古墳時代末期ごろまでに日本の広範囲に影響を与えるまでに至りました。日本の国家としての胎動が始まったのがこの頃になります。
ところで、大和(ヤマト)の国が政治を行った大和朝廷が現在の京都の明日香村の付近にあり、現代ではこの時代のことを飛鳥時代と呼びます。
蘇我氏の台頭
6世紀後半のヤマト政権下の日本では、動乱が全くなかったのかというと、そういうわけでもありませんでした。朝廷から離れた地域で、朝鮮半島への出兵に対する反乱が実際に起きていたそうです。これが全国に広がっていった結果、鎮圧に1年ほどかかったとされていますが、これを抑え込んだ蘇我氏という豪族が朝廷で権力を得ることになりました。
蘇我氏は仏教の政治利用をめぐって物部氏という豪族と対立していましたが、これを退かせ、更には当時蘇我氏と対立していた大王(天皇)さえも殺してしまったのです。私利私欲の為に何でもしてしまう、とんでもない人だったのですね。
蘇我氏の長であった蘇我馬子の権力は、もはや大王に匹敵するくらいであったといわれていて、しまいには、蘇我馬子が推薦した人を大王とします。その人は初めての女性天皇で、推古天皇という人でした(この頃から天皇という言葉が大王の代わりによく用いられるようになったそうです)。
蘇我馬子の思惑としては、「推古天皇という傀儡(操れる存在)を置いて、政治の実権を握ってやる!」という事だったと思うのですが、推古天皇はそうはさせませんでした。
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摂政、聖徳太子
推古天皇は、政治を助けるための摂政として、聖徳太子を任命しました。摂政というのは「政治を代行して行う人」で、これで実質聖徳太子が政治を行う事となりました。
聖徳太子がおこなった大きな事柄と言えば、
- 冠位十二階の制定
- 十七条の憲法の制定
- 遣隋使の派遣
などがあり、仏教を栄えさせ、天皇中心の政治体系を作ることに尽力しました。
冠位十二階
冠位十二階とは、その人の能力に応じて、色の異なる冠を与え、序列を決めるというものです。なぜこれが定められたかというと、氏姓制度の問題を埋めるためだと言われています。
氏姓制度では、能力に応じて氏姓が与えられるという点については問題なかったのですが、その氏姓が子供にも受け継がれてしまうので、子どもが能力が高くなくても立派な氏姓を名乗ることができました。この時代の政治の中心には氏姓で認められた人が入れるというのが慣例だったので、これは大問題だったのです。
生まれの身分ではなく、冠位で認められた人間を朝廷で働かせたい、という意味があったと思われます。
十七条の憲法
十七条の憲法とは、朝廷で働く人々などに向けた道徳を説くもので、現在の日本国憲法のような全国民が守らなければならないものではありません。
冠位十二階を定めてすぐ翌年に制定されたものであり、様々な出自の人が朝廷に入ることになったので、規律などを改めて示すという目的があったのではないかと考えられますね。
その内容については、「和を以て貴しと為す」という文に始まる第一条が有名ですが、憲法の全編にわたって儒教や仏教が根本になっています。儒教も仏教も渡来人によってもたらされたもので、この時には既に朝廷で用いようと考えられていたのですね。
遣隋使の派遣
聖徳太子は朝廷の臣に隋へ行くように指示しました。隋とは現在の中国の位置にあった国で、宋や北魏の後の時代に誕生したものです。
隋に派遣した理由は、隋の発展した文化を取り入れたかったということもさながら、隋と対等になりたかったということがあるそうです(対等になる為に、上で上げたような政治体系を整えるなどしています)。
遣隋使へは何度か行かせていたようですが、使節の中で特に有名なのは小野妹子です。
小野妹子は朝廷の臣下であり、隋に国書を送らせた人とされています。
また、名前から勘違いされることが多いですが、小野妹子は男で、その当時「~子」という人は男が普通にいました。
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仏教の興隆
聖徳太子は、上に述べた事柄の他、仏教の興隆に努めました。
そもそも、十七条の憲法は仏教の考え方を用いていたことからも明らかですが、蘇我馬子らと共に仏教の流布に尽力し、多くの寺院を建立しました。
その中でも有名なのが「法隆寺」「飛鳥寺」「四天王寺」等です。
都があった飛鳥京を中心にこれらの日本最古の寺院が立て続けに建立されたこの頃の仏教文化を飛鳥文化といいます。
聖徳太子は天皇による政治体系を構築し、日本の仏教文化の黎明期である時期に仏教の流布に努めるなど、多大な貢献をしました。
このように、少しずつ日本の政治は成長していくわけですが、朝廷の臣以外の全ての民にとっていい事ばかりではありませんでした。それは別の回でお話ししましょう。