【歴史】遣唐使の廃止と国風文化のおこり
奈良時代から平安時代まで不定期に行かせていた遣唐使ですが、平安時代に入って廃止することとなりました。唐からの優れた文化を取り入れ、唐の皇帝との関係を深めるという意味がありましたが、どうして廃止することになったのでしょうか。
そして、廃止した後の日本はどのように変化していったのでしょうか。
ということで、今回は遣唐使の廃止と国風文化の盛隆について説明していきます!
遣唐使の廃止
奈良時代から続いてきた遣唐使が菅原道真の意見によって廃止されることとなりました。
菅原道真は現在「学問の神様」と慕われている人物で、今の大学入試のような試験において他の人よりも早く合格し、秀才であったことが史実に残されているほか、学者・政治家として名を馳せた人物です。
この菅原道真が政治において行ったことのひとつが遣唐使の廃止です。
遣唐使は奈良時代に特に盛んに行われており、日本に制度や技術、文化を取り入れるために重要なものでしたが、この当時どうして廃止することになったのでしょうか。
いくつか考えられる理由を見ていきましょう。
唐文化が十分に入ってきていた
まず考えられているのが、奈良時代から続く長い遣唐使派遣の中で、もう既に多くの唐文化を取り入れており、実際に平城京や平安京といった長安(唐の首都)を真似た都市を建設したり、寺社や仏教の考えも朝廷を中心に普及するなどしていました。このような状況下で、もはや唐文化を受け入れる必要も無いと考えたのではないか、ということが考えられます。
唐が衰退していた
その当時の唐は国家状態が不安定になっており、そのような状況で派遣することは危険が伴います。治安が維持されていた頃には出くわさなかった海賊にあったり、国についたとしても、道中の安全が保証されないとなると、そこまでの危険を冒して行かせることはないと思います。
また、国自体が衰退すると、以前までの厚遇とは打って変わり、冷遇を受けるようになっていったそうです。そんな所に派遣するのはちょっと…という考えになることは難しくありません。
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優秀な人材を失いたくない
そもそもな話になりますが、当時は航海技術に乏しかったので、無事に行って帰ってくることが難しいという事情もありました。当然、奈良の遣唐使やそれ以前の遣隋使の時代も同様ではありましたが、文化を十分に取り入れたこの時期では、わざわざ優秀な人物を命懸けの航海に駆り出させる必要性はないと菅原道真は考えたということだと思います。
主にこのような理由があると考えられますが、遣唐使は廃止され、大陸から文化を強く受ける時代は終わりました。そして、新たに日本独自の新しい文化「国風文化」がおこり始めます。
国風文化のおこり
国風文化とは上に示した通り、日本独自の文化の事です。国風文化では、大陸から得たものをリノベーションして、日本風な「上品」で「繊細」、そして「自然との調和」という特徴を持った様々なものが生まれることとなりました。
文字・文学
この時代まで、日本の人々は漢字のみを用いて言葉を表していました。奈良時代より編纂された万葉集では漢字の音読みで日本語の発音を当てる(万葉かな)ことで日本語を表現していました。
しかし、遣唐使の無い時代になると、かな文字が用いられるようになりました。かな文字とは私たちが現在用いているひらがなのことです。これは今まで当て字として利用していた漢字の草書体(崩した形)をより簡略化して表したものです。
かな文字を用いてかかれた文学として紫式部が日本で初めて書いた長編作品とされる「源氏物語(げんじものがたり)」や、清少納言の随筆である「枕草子(まくらのそうし)」はあまりにも有名です。他にも多くの女性作家による作品が作り出され、これはこの時代の日本人の繊細さや感性を如実に表したものとなっています。
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和歌
短歌自体は奈良時代から存在していましたが、このうち大和歌だけが和歌という名前に変わって受け継がれました。この時代には天皇が命じて作成された勅撰和歌集である「古今和歌集」が誕生しました。
また、貴族の間では連歌という、和歌の上の句と下の句を別の人間が詠むというものが流行りました。これはのちの時代にも引き継がれ、発展していきました。
建築
この時代より、貴族の住居は寝殿造(しんでんづくり)と呼ばれる建築様式で建てられるようになりました。これは奈良時代の唐風様式の重厚で閉鎖的な印象とは対照的に、豪華絢爛で開放的であることが大きな特徴です。その他にも、建物内で靴を脱ぐという現在でも続く日本の風習であったり、板の上ではなく畳の上で寝るという日本家屋の特徴は、この建築のころから始まっています。
また、建築以外でも、前庭と呼ばれる池や木が置かれるところもあったとされ、自然との調和が図られていました。
残念なことに、寝殿造の建物は現在はほとんど残されていません。その中でも、平等院や京都御所の紫宸殿 など観ることが出来るものもあるので、気になった人は見に行ってみてはいかがでしょうか。