【歴史】執権政治と元寇
鎌倉幕府を開き、源氏の長期的な支配が続くと思いきや、実質3代目で終わってしまいます。
江戸時代が15代にわたって続いたことを考えると、相当短いことが分かると思います(江戸時代がそもそも長いですが)。
それを終わらせたのは、元々はそこまで力を持っていなかった一族である北条氏でした。
今回は北条氏の執権政治と、その時期に発生した事件について解説していきます!
テスト勉強などで時間がない方は赤字の部分だけ、受験勉強などでしっかり学びたい方は、歴史の流れを捉えながら読んでいってみてください!
頼朝と北条氏
北条氏の台頭までのストーリーは、鎌倉幕府を開くよりずっと前、源頼朝が伊豆に島流しにされたところからはじまります。
源頼朝は、平治の乱にて父である源義朝が敗北した時に、平氏によって伊豆に送られてしまうこととなりました。その送られた先の土地にて、平氏側の一族であり、源頼朝の監視役であったのが北条氏でした。源頼朝はのちに北条氏のトップである北条時政の娘である北条政子と結婚し、それがきっかけで、以降、北条氏は源氏を支持することとなります。
その後に源平の戦いがあり、源氏側が勝利し、平氏を滅亡に追いやったことで、源頼朝の政権である鎌倉幕府が誕生することとなります。
源頼朝は北条氏を御家人の中でも特に優遇し、影響力を手に入れました(婚姻関係がある家柄は優遇される、想像に難しくないと思います)。
そして、頼朝が亡くなると北条時政は執権となり政治の実権を握る事となります。
執権政治とは?
さて、執権とはなんでしょうか。今までにも摂政や関白といった補助的な役割が朝廷の中でうまれ、摂関政治という名前で呼ばれるほど流行った時代がありましたが、執権も似たようなものです。
執権とは将軍の補佐をする役職のことであり、その当時は朝廷ではなく将軍が政治の実権を握っていたので、将軍が政治を行えないとなると、その補佐をする役職である執権が政治の実権を握ることになりました。
それに最初になったのが北条時政でした。
北条氏はその後も源頼朝の血筋の人間を殺し、遂には全滅させてしまいました。
血筋がいなくなると、将軍を誰とするのかという問題がありますが、朝廷から北条氏の息のかかった人間を連れてきて征夷大将軍とし、その執権として実質鎌倉幕府を支配する体制を完成させました。
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承久の乱(朝廷vs鎌倉幕府)
さて、政治の実権を武家側が持つことになったわけですが、それでいい気がしないのは誰でしょうか。
今まで政治を誰が動かしていたのかを考えれば答えは自然と出てきます。
そうです、天皇であり朝廷です。
その当時の上皇であった後鳥羽上皇は武家による政治体制が気に入らず、朝廷をどうにか取り返して今までのような天皇中心の政治体制に戻したかったのです。
そんなタイミングで、鎌倉幕府3代将軍である源実朝が暗殺されたので、鎌倉幕府が弱体化したいいチャンスだと思い、乱を起こしました。1221年の事です。
これまで、朝廷が兵を挙げて国内の争いで負けたことはありませんでした。さらに、朝廷に対抗するとなると、「朝敵」という「日本の存在を脅かすもの」という大変不名誉な肩書を付けられることとなります。だから、そんなリスクを背負って対抗してくる人なんぞ多くないだろうと考えていたのでしょう。
しかし、そううまくいかないのです。
東国の武士たちは御恩と奉公という関係で結ばれていました。源頼朝からの御恩を返すべく、朝廷を倒すために一斉に立ち上がったのです。
その結果、朝廷側は2か月で敗れ、幕府側の勝利で終わります。
この戦いによって、朝廷と幕府の立場が逆転することとなります(朝廷は幕府の命令に従うようになったということです)。
京には六波羅探題(ろくはらたんだい)という幕府の出先機関を設置し、朝廷の動きを監視・朝廷は天皇を決めるという大事なことですら幕府の顔を伺うようになり、幕府の政治権力は確実なものとなりました。
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元寇(げんこう)
元寇とは、日本で初めて外国勢力が日本に来て戦った争いです。
やってきた国とは、元(げん)という国でした。
モンゴルの遊牧民がユーラシア大陸の半分近くを制圧し、当時イケイケだった国です。中国にあった宋という国は滅ぼされ、東ヨーロッパまで領土としました。
そんな国が、日本にも服従するように幾度となく要求してきますが、時の施政者であった北条時宗はそれを何度も断っていきました。
そして、それが無理だと分かった元はついに、日本に攻め込みにやってきます。この出来事を年号より文永の役といいます。1274年の事です。
元から来た大軍を相手に戦うこととなりますが、彼らは日本と戦い方のスタイルが異なりました。
その当時の日本は一騎打ちがメインで、「やあやあ我こそは〜」とお互いに名乗ってから戦い始めるということをしていました。しかし、元の人は集団で攻撃をしてきて、名乗る訳もなく殴ってくるわけです。
さらに、彼らはまだ日本人が知らない遠距離武器を使ってきました。てつはうや毒矢のようなものです。
そのような新しい兵器や戦い方を見せつけられる中、戦いは暴風雨によって元が撤退することによって終わることになります。
(と、教科書では書かれていますが、現在では指揮官の一人が負傷したため、戦略的撤退をしましたが、季節が冬だったため、撤退中に寒波にあったという説が濃厚です。)
2回目は1281年にやってきます。これを弘安の役といいます。戦いの結末はこれまた前回と同じように暴風雨による元の撤退で終わります。
(こちらも現在ではより詳しく資料が残ってます。2回目の方が戦いが激しく、元軍は総勢約13万!!の大群でやってきたといいます。ただ、内訳の10万は滅ぼしたばかりの南宋軍。連携もうまく取れていなかったそうです。季節は初夏、梅雨明けの台風によって壊滅的な被害を受けて撤退したそうです。)
この2回の元からの攻めに対して、日本は土地を奪われることなく終わったので、実質勝利です。
めでたしめでたし〜と言いたいところではありますが、この後の国内の方が悲惨でした。
御家人は将軍の名のもと元と戦いに挑み、見事に追い出すという大変な「奉公」を成したので、将軍はそれ相応の「御恩」をしなければなりません。
ところが、この戦争で得られたものはありません。御恩というのは、主に争いによって勝った相手の土地を将軍が手に入れ、それを御家人に分け与えるという形で実現されていたので、防衛線であったこの戦いで将軍が得られた土地は無く、御家人に対して十分な御恩をすることが出来ませんでした。
これでは御家人は不満を持ちます。
さらに元寇の為に御家人たちは多額の費用を費やしたので、貧乏になり、借金をするものも出てきました。
これでは御家人の不満がますます溜まってしまうということで、幕府は徳政令を出します。
徳政令とは、一言でいうと「借金帳消しにしてあげる!」ということです。
これによって、御家人は一時的に借金を帳消しにすることが出来ました。ところが、根本的な解決には至りませんでした。
これで困るのはお金を貸す側で、「帳消しにされたらこっちが損だし、また同じようにされたら堪ったもんじゃない」と思ったんですね。現在の常識で考えても当然ですね。こうして御家人はお金を借りにくくなり、疲弊していくこととなりました。
このように、元寇がきっかけで幕府と御家人の関係が揺らぎ始めていきます。