【歴史】大化の改新と白村江の戦い

今回は聖徳太子の時代から少し経った時期の政治の移り変わりについて、簡潔に、出来る限り流れが分かるように解説していこうと思います。テスト前など時間がない方は赤字の部分だけでも覚えて、時間のある人は、歴史という物語の流れを理解しながら読んでいってみて下さい。

目次

聖徳太子の死去と蘇我氏の台頭

聖徳太子が622年に亡くなると、蘇我氏が再び力を持ち始めます。蘇我馬子の孫である蘇我入鹿(そがのいるか)は聖徳太子の息子を殺すなどし、朝廷の人々から反感を買っていきました。

これを打ち倒したのが皇族である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と豪族の中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。これが起きたのが645年であることから「645(むしご)ろし」という覚え方があるそうです。物騒な語呂ですが、年号は大事なので覚えておきましょう。

この後、蘇我氏はこれ以上の権力を持つことはなくなり、時代が進むにつれて衰退していきました。

そして、天皇(皇族)中心の政治が戻ってくることになります。

大化の改新

その時の天皇である孝徳天皇と中大兄皇子は、天皇中心の政治体系を強固とするために、様々な改革を行っていきました。この一連の改革のことを、これが起こった時代である大化という年号から大化の改新と呼びます。年号自体も大化が一番最初だと言われています。

大化の改新では、改新の詔を発布し、4原則を規定しました。

  • 公地公民
  • 国・郡・里
  • 班田収授法
  • 租・庸・調

これらについて一つ一つ解説していきますね。

公地公民

これは、豪族などが持っていた土地や人々は朝廷のものとする、というきまりです。朝廷の行動が横暴だな…と思う人がいるかもしれませんが、この時代はまだ豪族が日本各地に広大な土地を持っていたので、豪族たちの各地方での力が強かったのです。これを抑えることによって、朝廷の中央集権(権力が一カ所に集中すること)を目指したという事です。

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国・郡・里

これは、現在のような県、市町村の原型に近いもので、地方行政を行うために、地方を区分分けするものです。これが実現したのは、大化の時代よりもう少し後ですが、この時に既に方針を打ち出していました。

班田収授法

これは、人々の戸籍をつくり、1人1人に対して一定の広さの田んぼを与えるというものでした。

これは、人に対して朝廷が田んぼを授与し、その人が亡くなると返還する、というものでした。子どもに対して相続することは出来ませんでした。

人民が自分の米を確保すること、そして次に説明する納税を安定して行わせることを目的としていました。

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租・庸・調

これは朝廷から人々に課す税を定めたものです。

人々の田から収穫される米のうち数パーセントを朝廷に収める、というものでした。これは朝廷の収入を安定させるために行ったとされていますが、当時の農耕技術は高くなく、とれないこともしばしばあったため、実際は不安定だったそうです。

男子に京へ労役する代わりに支払わせた税で、布や米、塩などがその対象となったそうです。庸によって収められた米を庸米、布を庸布などと呼んでいました。

調17~20才の男子に繊維製品を収めさせる税で、他にも地元の特産品であったり、銭なども認められていたそうです。

これらの税を収める為のものを作ることがまず難しく、さらにこれを朝廷まで届けるのは自力である必要があったことから、人々は大変苦しめられることとなりました。

白村江の戦い

大化の改新で様々な新制度が設けられ、国内の安定に努めていましたが、それと同時に海外にも目を向けていました。

7世紀中ごろの朝鮮半島では高句麗、新羅、百済が戦争をしており、日本は百済と友好関係を築いていたのですが、その百済が660年に新羅によって滅ぼされてしまいます。

これを見た中大兄皇子は、百済を救い朝鮮での権益を維持するために、全国の豪族たちに朝鮮への出兵を命じ、百済の残党と共に戦争をすることになります。この663年の戦いを白村江の戦いといいます。

しかしながら、新羅は唐(隋の次の王朝)と手を組んでおり、唐の統制された軍に太刀打ちできず、敢えなく敗北します。この戦いは凄惨を極めたそうで、出兵した殆どの日本人が死に、捕虜となった人々もほとんど日本に帰ることが出来ず、運良く帰れたとしても数十年後、という事だったそうです。

この戦いの後、新羅は高句麗をも滅ぼし、朝鮮半島を統一しました。日本の朝鮮半島との繋がりは絶たれることになります。そして、この戦いを期に、一度喧嘩を売ってしまった新羅・唐からの侵略を恐れ、日本は国内の統制を高める方向に進んでいくことになります。

国内防衛の強化(防人)

白村江の戦いに敗れた中大兄皇子は、早速国内の防衛固めを始めます。新羅・唐からの攻撃に備えてのことでした。

朝鮮半島から最も近い九州北部に水城(壕や土塁)や山城が次々に建設され、そこに防人(さきもり)を設置しました。防人とは、名前の通り、外からの攻撃を防ぐ人です。3年交代で主に東日本から人を徴兵することで用意しました。

何故勤務地は九州なのに東日本から?と思うかもしれませんが、遠くの方が逃げ出しにくいから、という理由だと考えられています。中々ヒドイですよね。

更に、徴兵されているからといって税が亡くなるという事は無かったというのです。そして、往復の交通費や食費もすべて自腹、支給も無いので、帰りに死んでしまう人もざらにいたそうです。

こんなことだから、故郷に残された人たちも堪ったものでは無かったでしょう。

防人に行くことで離別する人たちや、故郷にいる人を想って歌った「防人の詩」が多く残されており、どのような心境だったのかを垣間見ることが出来ます。興味がある人はぜひ調べてみて下さい。

この記事を書いた人
趣味:サイクリング

学習アドバイザー 後藤

家庭教師のやる気アシストで、学習アドバイザーとして年間600人以上のお子さんの勉強のお悩みを解決!たくさんのお悩みを解決してきた学習アドバイザーの目線から、勉強に関する様々なことを記事にしています。
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