【歴史】鎌倉幕府の政治
白河上皇による院生がきっかけとなり、武士の勢いが増大し、平氏と源氏の勢力争いの時代に入り、最終的に勝利したのは源氏の頭、源頼朝でした。
彼は征夷大将軍となり、拠点であった鎌倉の地に幕府を置くことによって、朝廷に代わり武士が政治の中心を担う時代が到来することとなります。
鎌倉時代は地味なようで大事な出来事があり、高校入試などでも問われやすい時代です。苦手な方や、まだ勉強していない方は、このページを読んで全体の流れを掴んでみて下さい!
なぜ鎌倉?
源頼朝は鎌倉幕府を置いて、政治を行うこととなります。
ここで思うのは、「何で鎌倉?」という点です。
考えてみて下さい。今まで「平城京(現在の奈良)」「平安京(現在の京都)」などの現在の近畿地方に政治の中心が置かれていました。それが突然、鎌倉という当時は「東国」と呼ばれていたような場所に位置する土地に幕府を開いたのですから、甚だ疑問に思ってもおかしくありません。
この理由については、
1. 源氏ゆかりの地だった
2. 攻めにくい土地だった
3. 平安京から遠い場所だった
などが考えられます。ひとつひとつ見ていきましょう!
仮説1:源氏ゆかりの地だった説
まず、源氏ゆかりの地だったというのは、幕府を開く数十年前くらいから源氏がこの辺を拠点にしていたという事実があります。幕府を開く前、源平の戦いの際も源頼朝は鎌倉に居座り、そこから家臣に命令を出していました。なので、その場所を政治の拠点にしよう、というのは自然な流れなのかもしれません。
仮説2:攻めにくい土地だった説
次に、攻めにくい土地だったという事があります。鎌倉は北、東、西が山に囲まれており、南は海に面しているという土地になっています。そのような土地に人を大量に送り込むという事は難しいので、守りが強い土地だといえます。この時代には既に多くの武士がいましたから、平安京や平城京のような開けた場所では危険だと思ったのでしょう。
仮説3:平安京から遠い場所だった説
そして、最後に、平安京から遠い場所だったという事があります。源頼朝が実質の政治の中心になりましたが、平安京には依然として朝廷があり、貴族がいて、天皇がいました。
そこから離れることで、彼らからの影響力を極力小さくしたかったという思惑があるのではないかと考えることが出来ますね。
他にも理由があるかもしれませんが、この土地に実際100年ほど幕府が置かれ続けることとなったので、場所選びは間違ってなかったと言えましょう。
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封建制度の確立(御恩と奉公)
平安時代の後半から始まり、このころ確立されたものに「封建制度」があります。封建制度とは、主従関係にある人々が土地と忠誠を与え合う関係のことです。これは日本だけでなく、当時のヨーロッパなどででも広まっていたもので、あっちでは王と貴族、貴族と臣民の間でその関係がありました。
さて、鎌倉時代はこれを「御恩(ごおん)」と「奉公(ほうこう)」と呼んでいました。
鎌倉幕府の長を将軍と呼び、将軍と主従関係を結んでいた家来を御家人(ごけにん)と呼びますが、御家人が将軍の為に争いに行って勝利したり、経済的に将軍を支えたりすることで将軍に奉公をし、そのご褒美として土地(やそこに住む人々)を与える事(御恩)によって、お互いに利益となる関係を築いていた、という事です。
これは江戸時代まで続くこととなります。
守護と地頭
鎌倉幕府の成立の前後で行われたことですが、源頼朝は全国に守護(しゅご)と地頭(じとう)を置くように命じました。
守護とは各国に警察や軍事を行ったり、その土地の御家人を監視したりする役職で、地頭は荘園の税を取り立てる役職です。それらには有力な御家人が任命されました。
これらが必要な理由は、鎌倉幕府の息が掛かった人を全国に送ることで、全国を支配するためです。各国には国司と呼ばれる朝廷側の人間がいるので、彼らが実権を握っているうちは支配が難しかったわけです。
国司と守護がそれぞれいることで対立が発生することがありましたが、武士の力が強くなっていたこの時代では守護の力が圧倒的に上回っていくこととなります。国司からしたら、勝手にやってきて支配されたら堪ったもんじゃないですね。ただ、そういう時代でした。
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御成敗式目(ごせいばいしきもく)
鎌倉幕府は、武家の法律といえる御成敗式目を制定しました。それまでは朝廷の人々を中心とした律令制度が基本となっていたので、武家世界における決め事が新たに必要となっていたのです。御成敗式目では「土地の支配権」「刑法」「裁判」「税制」などについて定め、これらによって武家支配は強固なものとなりました。
このように、鎌倉幕府は武家中心の政治体制を固めていきましたが、実は源氏の支配は御成敗式目が制定された時点で終わっていました。実は別の御家人による支配が続いたのが鎌倉幕府だったのです。この話については別のページで解説します。