【歴史】室町幕府の崩壊と応仁の乱
室町幕府が開かれ、南北朝時代が始まるものの、足利義満によって朝廷は統一し、いよいよ足利氏による安定した時代がやってくると思ったかもしれませんが、そんなことは全くありませんでした。足利氏の時代は一つの乱によって実質の終わりを迎え、戦国時代へ入っていくこととなるのです。
今回は応仁の乱がどうして発生してしまったのか、そして、それによって後の世の中にどのような影響を与えたのかについて解説していきたいと思います。
定期テスト・高校受験などでは、応仁の乱の内容まで訊かれることは無いと思いますが、ちょっと深いところまで知ると、歴史の流れを理解しやすいので、ぜひ読んでみて下さい!
安定しているかに見えた室町幕府の崩壊
足利義満の時代に室町幕府は最盛期を迎え、文化も栄えるなど平和な時代がやってきます。ところが、あることをきっかけにその安寧に暗雲が立ち込めてきます。
それは、8代将軍足利義政に跡継ぎが生まれなかったことです。
将軍というのは基本的にその子供が後嗣(家を受け継ぐ人)となるので、生まれないと困るわけです(奈良時代の壬申の乱でも跡継ぎで揉めましたね)。そんなこんなで「跡継ぎは弟に。これは後に息子が生まれても変わらない」と弟に約束しました。
ところで、その後に息子が生まれましたが、約束は約束なので、ここで誰かが突っ込まなければ問題はなかったわけです。
しかし、足利義政の妻である日野富子は「いや!どうしても息子を将軍にする!」と言い出します。これによって完全にこじれてしまいました。
同じようなことが、管領(将軍の次に偉い役職)である「畠山氏」にも起こりました。男児が生まれず、弟に譲ると約束するも、息子が生まれてしまうというパターンです。この時、その息子が家を継ぐことになりますが、失政により降ろされ、さっきの弟がやはり家を継ぐこととなります。これで息子はプライドを叩き落され、対立することになります。
こんな内輪もめが同時期に起こってしまい、さらに仲の悪かった「細川氏」と「山名氏」という有力な大名がそれぞれの側に付き対立したことで、戦乱は確実のものとなりました。
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応仁の乱
こうして1467年(応仁元年)に京都で争いが始まり、連鎖的に全国規模の戦いとなっていきます。
この乱は本当に混沌であったそうです。
皆が最初から最後まで片方の陣営にいたわけではなく、途中で勝ちそうな方へ寝返ったりもしますし、街も壊しまくりました。公家や寺院が持っている荘園も奪い放題で、多くの人が京都を追われていきました。
この乱の中心人物であった「細川勝元」「山名宗全」が亡くなってからも続き、最終的に足利義視(足利義政の弟)が京都から引き上げることで応仁の乱は一応終わることとなります。この時、なんと乱の始まりから11年も経っていました。
この乱によって、乱の中心地であった平安京は焼け野原となり、平安時代頃からあったような貴重な寺院・仏閣・寝殿造の建築・文書・芸術はことごとく無くなってしまいました。(今の京都の建物は殆どが応仁の乱以降のものです。)
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乱のその後
この乱は今でも分かっていないことが多く、説明が難しいのですが、室町幕府の衰退を後押ししたことは間違いありません。このような戦乱を起こしたきっかけとなり、それを収めることができない幕府に付いていこうとは誰も思わないわけです。
こうして、中央集権が機能しなくなった今、各国の守護大名は自分たちの国を豊かに、そして強くする必要が出てきました。土地を奪ったり奪われたりしても誰も止めることが出来ない時代となってしまったからです。(下の者が上の者を打倒して勢力を拡大する、ということも応仁の乱より起こりました。このようなことを下克上といいます。)
このように荘園という概念そのものが翻されてしまったのもこの乱以降であり、
戦国大名と呼ばれる戦国時代に各地の国を支配していた大名たちが奪っていくことで、どんどんその数を減らしていきました。
そういえば、この乱の実質の責任があるとされる足利義政は、乱の後も生きていました。彼は政治こそ全くできなかったものの、書院造の建築を作り、石庭を作らせるなど、東山文化を生み出したという点で現在評価されています。
さて、この乱が終わり、室町幕府の力が衰退していくと、各地の戦国大名が猛威を振るう時代が到来することとなります。