【歴史】江戸幕府の支配制度と身分制度
こんにちは!
今回は、江戸時代の前期~中間の支配制度と身分制度について、時代背景を含めて説明していきます。
定期テストが近い人は赤字の部分、受験勉強の人はなるべく全体の流れまで捉えられるように読み進めていってくださいね!
江戸時代の幕開け
関ヶ原の戦いという、その当時の日本の2大勢力である豊臣陣営と徳川陣営の戦いが終わり、徳川家康が勝利を収めました。
徳川家康が勝利したことで、日本の支配権は徳川家康のものとなり、朝廷より征夷大将軍に命ぜられ、江戸に幕府を構えます。
これを江戸幕府といいます。(幕府というのは武士が国政を行う拠点の事です!)
江戸幕府を開いた後も細々と生き残っていた豊臣家ですが、大坂の陣によって豊臣秀吉の血筋を絶ち、徳川家康は圧倒的な権力を手にすることとなりました。
話が変わりますが、今までの幕府を思い出してください。
鎌倉時代は150年いかないくらい、室町幕府は240年続いていましたが、どちらも比較的早めにその絶大な求心力を失っていることを思い出してください。
鎌倉幕府なんかは実質北条氏の政権となってしまっていたし、室町幕府も8代将軍あたりで没落してしまっています。
そんな過去の歴史を見た徳川家は、戦国時代というレッドオーシャンで手に入れた権力をそう易々と手放したり没落させたりはしまいと思ったのかどうかは分かりません。
しかし、少なくとも上2つの政権よりも強固な国内統治の体制を作り出し、長い期間徳川家による政権を維持することが出来ました。
長々と前書きのようなものを書いてしまいましたが、具体的にどんな体制や制度によって国内を安定させてきたのかを見ていきましょう!
大名の区分
国内を安定させるには、まず朝廷や大名を大人しくさせる必要があります。
そこで、江戸幕府は大名を3つの種類に分けました。それが、
- 親藩
- 譜代大名
- 外様大名
です。
ひとつひとつ見ていきましょう。
親藩
親藩とは、徳川将軍家との血筋がある大名の事をいいます。
その中でも、別格に扱われたのが尾張、紀州、水戸の3つの徳川家です。
その他にも、全国に松平氏を名乗る親藩がいくつかありました。
この親藩には「将軍の息子が生まれなかったら、次の将軍となる人を出す」という明確な意味がありました。後継ぎが途絶えることが無いようにしたのです。
実際、紀州徳川家と水戸徳川家からは将軍が輩出されているんですよ。
譜代大名
譜代大名とは、関ヶ原の戦いより前から味方であった大名の事をいいます。
徳川家康が天下を取ることに賛同していた大名ということなので、比較的信頼がおける大名という位置づけです。
幕府から比較的近い近畿・東海・関東圏にその多くが置かれました。
外様大名
外様大名とは、関ヶ原の戦いより後に従った大名の事をいいます。徳川家康が天下を取ることを阻んでいた大名ということなので、信頼を置くことはできません。
なので、九州や東北、中国地方などの、江戸から遠い場所にその多くが置かれました。
また、外様大名にはその土地・人員規模が大きいものが多かったため、彼ら同士がくっつくと幕府に対する大きな障害となり得ます。
なので、外様大名と外様大名の間には譜代大名や幕府の直轄領を置くことで、結びつきを作らせないようにしました。
さて、江戸幕府は全国に藩という地域区分を作り、そこを大名に治めさせるようにしました。
これを幕藩体制といい、大名はその藩を自由に治めることが出来ました。それまでの幕府中心でそれ以外は有象無象な場所という感じから、各地域の独自性が作られるようになっていったのは藩というものが作られたことの功績と言えるでしょう。
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大名の支配
さて、上3つのような区分と配置の工夫でかなり抑え込まれてるな…と思いませんでしたか?
ところが、それだけに収まらないのが徳川家です。
2代将軍の徳川秀忠の頃に武家諸法度が作られます。
これは大名が守るべきルールのようなもので、鎌倉時代に作られた御成敗式目に似てると言えば似ています。
ただ、これは大名の成長を抑圧するという目的が強く出ているものになっています。
例えば、権力者同士の結婚には幕府の許可が必要だったり、新しい城を建てたり勝手に直してはいけないということなどが定められました。
参勤交代
これ以外にも、いくつか決められていましたが、3代将軍である徳川家光の時に新しく定められたものに、参勤交代というものがありました。これが大名にとって大変キツイものだったのです。
参勤交代とは、1年おきに大名が実費で江戸へ出向することを指します。
江戸には各大名のための屋敷が用意されていたので、そこに置かせて仕事をさせたり、江戸幕府への忠誠を確認する為に将軍と会わせたりしました。
今の感覚だと「東京にある本社に自腹で出張に行く」という感じですかね。お金と時間掛かるし面倒だなぁと思うかもしれません。
ただ、その当時は新幹線はおろか自動車も自転車も無いし、道路は今ほどきれいに整備されていないわけですから、その苦労は今の何倍とかいうレベルじゃないくらい大変なものだったのです。
例えば、大阪から東京まで、現代の私たちが行くなら新幹線で2時間半です。リニアができれば1時間ちょっとになるという話です。
それが江戸時代当時は、なんと半月です!半日ではありません。約15日かけて大坂から江戸まで行っていました。
もちろん、大名には従者がいて一人で行くことはできませんから、多くの人を連れて長い日数を移動することになります。
当然移動中の食費は掛かるし、江戸に着いても生活費が掛かります。
これが大名にとって大変な負担となり、結果として大名が力を付けることを阻害するものとなりました。
朝廷の支配
江戸幕府は大名だけでなく、朝廷への支配も厳格に行いました。
武家諸法度ができたのと同じころに公家諸法度を定め、幕府が朝廷に出来ることや権利について定めました。
例えば、幕府は朝廷の石高を決めることが出来たり、天皇や公家の行動を統制することが出来ました。
また、京都所司代という幕府直轄の朝廷監視・指示機関が設けられ、その統制を強固なものにしました。
京都所司代は鎌倉時代の六波羅探題に似ていますね。
とはいえ、江戸幕府は朝廷によって認められているという体制を作っておく必要があったので、将軍は朝廷の儀式などに参加するなど、建前として朝廷と将軍は平等であるということをアピールしていたようですよ。
このように幕府は大名と朝廷を制度によって支配したことで、室町時代以上の期間を徳川を名乗る将軍だけで治め続ける時代を築くことが出来たのです。
次は、身分制度についてです!
【復習】戦国時代の身分制度
江戸時代の身分制度を見る前に、戦国時代はどうだったのか振り返ってみましょう。
戦国時代までは、百姓、武士などの違いはあったものの、明確な区別はありませんでした。
なぜなら、農民も刀を持って戦に駆り出されることがあったからです。国同士の戦いはまさに総力戦でした。
家臣や大名、有力な武士は別ですが、基本的に農業と武士の兼業だったのです。
このような背景から、百姓に生まれ国の支配者にまでなった豊臣秀吉という人間が存在しえたのです。
ところが、大出世を遂げた豊臣秀吉その人が刀狩令を出して、百姓が刀を持つことを禁じたのです。
これは、百姓から武士になることを実質的に禁じたものとなります。
このような武士と百姓の区別は、江戸時代に埋まることのない溝として、なんと明治時代初期まで続きます。
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江戸時代の身分制度
江戸時代の身分を分けると、
- 武士
- 町人
- 百姓
- 天皇・公家・僧
となります。
江戸時代の身分制度では、生まれた土地によってその身分が決まっていて、一度決まった身分から別の身分に移ることはありませんでした。(罪を犯すなどして、上に書いていない身分に格下げされることはありました。)
武士
武士は支配層であり、町人や百姓よりも上の身分でした。武士の頂点は将軍です。人口に対する武士の割合は約7%でした。
武士は主に城下町の城に近い場所に住んでおり、名字を持つこと、刀を持つことを特権として認められていました。
百姓
百姓は人口の80%を占める、圧倒的大多数グループです。
百姓は農村で生活している人の身分で、城下町からは離れたところに住んでいました。
農民の中でも2つの種類があり、
- 本百姓(ほんびゃくしょう)
- 水呑百姓(みずのみびゃくしょう)
に分かれていました。
本百姓とは土地を持つ百姓のことで、水呑百姓とは土地を持たない百姓のことです。
土地を持つ本百姓の方は年貢を納める必要がありましたが、村の取り決めなどに参加するなど、村人として存在を認められていました。
一方で、水呑百姓は土地を持たないので年貢を納める必要はありませんでしたが、村人としての参加権はありませんでした。
農業だけでは食っていけないので、他の仕事もしていたと言われています。
ちなみに、年貢とは幕府に収める税のことで、基本的に米の収穫高で払います。
年貢ってどれだけ払う必要があったのかというと、多くの時期で「収穫高を10とすると、収入が5:年貢が5」の割合だったそうです。要するに、作った半分は年貢として消えてしまうというという事です。取り立てがものすごく厳しかったことが分かりますね。
ちなみに、収入と年貢の割合が5:5であることを、五公五民(ごこうごみん)というようです。
また、農民の年貢の未納(年貢を払わないこと)や犯罪については五人組(ごにんぐみ)という制度によって厳しく取り締まられました。
五人組とは、大体5件くらいの家を1つの集団として、この中で1件でも年貢の未納や犯罪をすると、連帯責任で全員同じ罰に処されるという制度でした。
みなが監視しながら足を引っ張らないように年貢を納め、犯罪を起こさないようにしたのですね。
町人
町人は城下町で商業や鍛冶屋を行う身分です。
町人の中にも、大屋敷を持つものや、裏路地で営むもの、店を持たず放浪するものもいたとされていますが、とにかく多種多様な仕事があったとされています。
年貢については、農民のコメではなく、営業税として銭を納めることになっていました。これは現代の我々と変わりませんね!
天皇・公家・僧
天皇・公家・僧という身分は、武士・百姓・町人とは別枠で設けられていました。
江戸時代の社会構造の外側に置かれたのです。もちろん、百姓や町人と同列に置くわけにはいかなかったので、武士と同格の扱いでした。
というのも、天皇は特別な身分なので言うまでもありませんが、公家は朝廷という「幕府の存在を承認している」組織を保つために無くてはならない存在でした。
僧はというと、庶民の管理という役回りがありました。庶民の戸籍を作成し、自分の寺を信仰することを強要していました。
えた・ひにん
今までの身分は表に出された身分でしたが、これらより低い身分がありました。
それが、えたとひにんです。
えた・ひにんは差別される為に作られてしまった身分で、今まで出てきた身分の中で最下層とされてきました。
住む場所は百姓や町人、武士とは離れた場所に住んでいたようです。
えたの人々の仕事は、皮革業や死んでしまった動物の処理など、死に関わる仕事を行なっていました。当時の仏教・神教観からすると、血はけがれであったので、えたという下の身分とされた人々に行わせていたそうです。
では、経済的に貧困していたのかというと、仕事の独占権が認められていたので、普通に生活できる程度には安定していたそうです。
ひにんの人々は、寺社での勧進(布教や寄付を募る活動)や、芸能、警備員、死刑執行、物乞いなどで生計を立てていました。
彼らは、他の身分と同様に生まれながらそうだったものもいますが、犯罪や浮浪人の処罰として、武士や百姓、町人などからひにんに転じさせてしまう場合もありました。
(このような身分は現在は無いですが、未だに差別が残っているところがあります。江戸時代から続くこの差別は許されたものではなく、えた・ひにんという言葉は日常生活で言ってはいけません。)
江戸幕府の支配制度と身分制度は分かりましたか?
覚えることが多く大変ですが、赤字を覚えていきましょう!