【歴史】江戸幕府の外交と鎖国
こんにちは!
今回は、江戸時代初期の外交と、鎖国について説明していきます。
「鎖国」という言葉は一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?
歴史的にとても大きな出来事でしたので、そうなった経緯や具体的な内容について勉強しましょう!
また、国名や地名がたくさん出てきますので、手元に地図を用意して、位置を確認しながら覚えていきましょう!
これをすると、テストで周りと差がつきますよ!
江戸初期の外交
江戸初期の外交方針についてみていきましょう!
貿易の名前が変わるとともに、安土桃山時代とは異なる国々との外交が盛んになりました。
朱印船貿易
安土桃山時代では、朱印船貿易が行われていました。
朱印船貿易では、海外渡航を許可する朱印状が与えられ、主に東南アジアの国々と行われました。
朱印状を持つ朱印船のみとが貿易したので、これが朱印船貿易の名前の由来となっています。
また、東南アジア各地には、日本人が住む日本町が作られました。
では何が取引されていたのでしょうか?
日本からは、銀や硫黄などの原料が輸出されました。
逆に東南アジアからは生糸、絹織物、動物の皮などを輸入しました。
南蛮貿易の終わり
安土桃山時代に行われていた南蛮貿易はどうなったのでしょうか?
南蛮貿易の相手国はスペインやポルトガルとの貿易でしたね!
実はこの2つの国の力が弱まったため、これらの国に代わって新たにほかの国との貿易を、幕府は盛んに行いました。
そのほかの国とは、オランダとイギリスです!
具体的なこの2国との交流は以下の通りです。
- 家康がオランダ人 ヤン=ヨウステン を外交顧問にした
- 家康がイギリス人 ウィリアム=アダムズ を外交顧問にした
- 1604年 糸割符制度ができる(中継貿易で成功していたポルトガルが、貿易を独占するのを防ぐため)
- 1609年、1613年 オランダ・イギリスが平戸に商館をひらく
最終的には、オランダ1国と強い外交関係を結んでいきます。
なぜなら、このころのイギリスはインドの植民地化に集中したかったからです。
鎖国へ
前述のとおり、江戸初期は東南アジアとオランダを中心に外交を行っていました。
ではなぜその後、鎖国に至ったのでしょうか?
その原因や幕府の意図について解説していきます。
ちなみに鎖国とは、貿易面や宗教面などで、外国との交流を制限や禁止することです。
鎖国にいたる背景
その背景には要素が2つあります。
- キリスト教の広がり
- 西国大名が豊かになることへの恐れ
この2つです!
宗教面と貿易面に分けて、順番に説明していきます。
\小・中・高校生の勉強にお悩みのあるお子さん・保護者様へ/
\小・中・高校生の勉強にお悩みのある方へ/
キリスト教の広がり
南蛮貿易を通して、南蛮文化も日本に伝わりました。
その中で、フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝わりました。
すると九州全体にキリスト教が急速に広まりました。
戦国時代には、一向宗が団結して反乱を起こす一向一揆が起こっていましたよね。
これは織田信長にも対抗するような大きな勢力でした。
このようなキリスト教徒による反乱が再度起こることを幕府はとても恐れていました。
これが鎖国に踏み切る1つの要因となりました。
西国大名が豊かになることへの恐れ
もう一つの要素は、貿易です。
前述の朱印船貿易や南蛮貿易は、長崎や平戸を中心として行われていました。
そして、この貿易には九州や西国の大名が参加しており、大きな利益を上げていました。
そのため、この貿易が始まって盛んになればなるほど、九州や西日本の大名たちが力を持つようになりました。
幕府は武家諸法度や参勤交代で力を抑えようとしていました。
豊かになることを恐れ、貿易も制限することにしました。
出来事の流れは、宗教面も貿易面も一緒に見ていきましょう!
- 1612年 禁教令
- 1635年 日本人の海外渡航・帰国の禁止(=朱印船貿易の禁止)
- 1637年 島原・天草一揆(島原の乱)
- 1639年 ポルトガル船の来航禁止(=南蛮貿易の禁止)
- 1641年 平戸のオランダ商館を長崎の出島に移す
島原・天草一揆について補足します。
これは、天草四郎(益田時貞)を首領に、4万人のキリスト教信者、農民、浪人らが起こした一揆です。
この大きな一揆を受けて、江戸幕府は絵踏や宗門改を強化しました。
この行動はキリスト教を取り締まるためのものでした。
絵踏とは、キリスト教徒が踏めないマリア像の絵を踏ませることで、キリスト教徒かどうかを見分けることです。
宗門改は、キリスト教から仏教などの宗教に改宗させることです。
鎖国下での外交
鎖国については、もう勉強しましたね!
では、鎖国中は外国と全く交流がなかったのでしょうか?
いいえ違います!一部の国と、制限された場所で外交をしていました。
全部で4つありますので、順番に見ていきましょう!
長崎・出島での中国・オランダとの貿易
最初の1つは長崎の出島での貿易です。
出島では、オランダに加えて中国とも貿易を始めます。
日本が鎖国中に正式に貿易していたのは、この中国・オランダのみです。
中国は17世紀半ばに、王朝が明から清になりました。このころから国交が始まりました。
長崎の出島にある唐人屋敷に中国人がやってきて、貿易をしていました。
オランダは西洋でただ一つ貿易をしていた国です。
オランダからヨーロッパの進んだ技術や文化、国際状況を入手していました。
幕府は出島にやってくるオランダ人に、オランダ風説書を毎回提出させました。
それにより、ヨーロッパの状況を把握していました。
貿易では何をやり取りしていたのでしょうか?
中国・オランダとの貿易では、外国から生糸や絹織物を輸入し、幕府からは金や銀、銅などの資源を輸出しました。
\小・中・高校生の勉強にお悩みのあるお子さん・保護者様へ/
\小・中・高校生の勉強にお悩みのある方へ/
\小・中・高校生の勉強にお悩みのあるお子さん・保護者様へ/
\小・中・高校生の勉強にお悩みのある方へ/
朝鮮と対馬藩
朝鮮とは、 豊臣秀吉が朝鮮出兵をして以来、国交が途絶えていました。
その後、江戸時代になると、朝鮮と近い対馬藩の宗氏が国交を回復しました。
そこで、プサンに倭館を置き、そこを通して貿易を行いました。
琉球王国と薩摩藩
先ほどと同様に、距離的に近い薩摩藩が関わってきます。
薩摩藩の島津氏が今の沖縄である琉球王国を征服しました。
琉球王国は薩摩藩の支配下ではあったものの、幕府は琉球王国は独立しているものとみなしていました。
そして、琉球王国は中国と距離が近いため、朝貢(文明的に進んでいる中国に挨拶に行くこと)を続けていました。
朝貢は、貿易の形の1つです。
つまり、薩摩藩は朝貢を通じて、琉球王国に中国と貿易をさせました。
したがって、幕府は琉球王国を通して、出島以外にも中国と貿易を行っていました。
ちなみに、琉球王国の中心だった首里城は世界遺産です。
アイヌ民族と松前藩
最後は北海道の話です。
江戸時代まで北海道は蝦夷地と呼ばれていました。
そこにはアイヌ民族と呼ばれる先住民がおり、狩猟採集の生活を送っていました。当時の日本と異なる生活をしていますよね。
ところが、日本が発展すると、本州の和人たちが北海道に進出しました。
その過程で、アイヌ民族のコシャマインと争いが起こるなどしました。
これが江戸時代までの歴史です。
江戸時代になると、松前氏が北海道に行って、松前藩を置きました。
幕府が公式に北海道を松前藩の領土として許可したのです。つまり、幕府の支配下となりました。
これに対して、再びコシャマインが争いを起こすも、鎮圧されます。
このように鎖国下でも、様々な国交が各窓口で行われていました。
江戸初期の外交と鎖国について分かりましたか?
覚えることが多く大変ですが、整理して学習を進めることが大切です!
地図で場所を確認しながら、覚えていきましょう!