【歴史】ヨーロッパの絶対王政と市民革命
日本が江戸時代に鎖国をしていたころ、はるか西のヨーロッパの国々では、近代へ向けた大きな時代の流れが始まっていました。これらは後に江戸時代から明治時代への移行をもたらす大事件に繋がっていきます。
今回の記事ではそこまでいきませんが、まずは絶対王政の時代から市民革命の時代までを取り上げていきます。国王中心の国家がどうして市民中心の国家に移っていったのか、そしてどのような思想に基づいたものだったのか、しっかり学んでいきましょう!
絶対王政
絶対王政とは何でしょう。なんか強そうな名前だな、と中学生の頃の私は思いましたが、
実際に国王がめちゃくちゃ強い政治権力を持つことを指す言葉です。
「国王が命ずる事は絶対にしなければならない」という事から絶対王政だと覚えましょう。
16世紀初めごろのヨーロッパでは、この絶対王政が各国に敷かれていました。
イギリスのエリザベス1世やフランスのルイ14世などがとくに有名です。
具体的にどんなことをしていたのかというと、国王直属の軍隊を編成したり、官僚制を定めたり、商工業を優遇して財を蓄えたりするなど、とにかく強い権力を持っていたのです。
勿論いい面もありましたが、市民との格差はどんどん広がっていき、多くの場合、市民からの評判は最悪でした。
イギリスの市民革命
16世紀のイギリスでは国王が国教を信仰することを命じたり、商人への優遇を強めたりしたことで、議会の人間をはじめ、信仰を制限された清教徒(キリスト教の一派)が強く抵抗します。議会派の中で中心となった人物がクロムウェルで、彼を中心に清教徒たちは国王を打倒するために兵を挙げました。
結果として国王は敗北し処刑、君主のいない政治体制である共和制を宣誓します。
イギリスで清教徒が中心となり、政治を国王から市民の手に渡らせたこの出来事を清教徒革命(またはピューリタン革命)といいます。
これが終わった後、クロムウェルが政治を行い、彼が亡くなると再び国王が政治権力を握ります。
これをよしとしなかった議会は、その国王を国外追放し、オランダから別の王を呼んできて国王の座に据えました。
この革命は非常に平和的(血が流れなかった)であったことから、名誉革命と呼ばれています。
さらに、この国王と議会の間で権利の章典というものを定めました。これは国王の権力を制限するもので、これにより国王は実権を象徴的な存在となりました。今の日本がまさにそうである立憲君主制を実現した最初の国となりました。
これが実現されたのが17世紀の事であり、他国よりも1歩早い民主主義への流れは、後のイギリスによる世界支配を決定づけた出来事の1つともいえます。
\小・中・高校生の勉強にお悩みのあるお子さん・保護者様へ/
\小・中・高校生の勉強にお悩みのある方へ/
アメリカ合衆国の独立
次はアメリカです。アメリカって、かなり新しい国であることを知っていますか?
実は、アメリカが独立をしたのは1775年の事なのです。
それまでは、イギリスの植民地でした。
イギリスは決してアメリカに対して本国と同水準の権利を与えることは無く、重税を押し付けられたりしていました。それに反発した事件も起こったりしています(ボストン茶会事件など)
そのような背景を経て、独立戦争が起こります。
独立戦争でアメリカはイギリスを破り、イギリスから独立したことでアメリカ合衆国が成立しました。
独立戦争の翌年(1776年)、アメリカは独立宣言を発表し、世界に向けて独立したことを発表しました。独立宣言では「基本的人権」や「革命権」などを認めたものであり、世界中(特にフランス)に多大な影響を与えました。
フランス革命
フランスはなんと18世紀後半まで絶対王政が続いていました。
その頃のフランスの税はかなり重く、人々の生活を苦しめるものでした。
そして、身分格差の問題もありました。聖職者が最も偉く、次に貴族、最後に市民となりますが、市民と市民以外の格差が甚だしいものでした。
そんな背景で、アメリカがイギリスから独立するという大事件があり、フランス国内でも啓蒙思想も活発化していきました。
啓蒙思想とは、民主的な近代国家体制の思想の事で、イギリスの名誉革命以降様々な知識人が唱えていったものです。(記事の最後に紹介します。)
土壌が成熟したところで、ついにフランスでも革命が起こります。
平民や農民が中心となって反乱を起こし、国王ルイ14世、国王の妻であるマリーアントワネットが処刑されました。
革命の主導者によって構成された国民議会は人権宣言を発表し、君主のいない政治体系である共和制となりました。
この一連の流れをフランス革命といいます。
ナポレオンの台頭
フランス革命の後、周辺の国々は「なんとしても革命を止めなければ!」と兵を挙げます。(各国の為政者(政治を行う者)からすると、革命が広がってしまい自分の国にまで影響が及ぶことは、為政者としての立場が危うくなるからです。)
フランスは周辺国に囲まれてしまうのですが、そこを打開していったのがナポレオンでした。ナポレオンは周辺国と和平を結んだり、戦いに勝利することで次々に名声を得ていきました。ここから1790年代後半から1815年までナポレオンの主導により行われた戦争をナポレオン戦争といいます。
1804年にナポレオンが皇帝の座に就くと、ナポレオン法典を発表します。これは市民の権利を拡大するもので、市民から評価を得ていきました。その他にも、現在に繋がる社会制度を作っていくことで、一気に近代国家へと進んでいきました。
\小・中・高校生の勉強にお悩みのあるお子さん・保護者様へ/
\小・中・高校生の勉強にお悩みのある方へ/
啓蒙思想
独立戦争やフランス革命が起こった背景には、啓蒙思想(けいもうしそう)が広まったことがあります。啓蒙思想とは、イギリスの名誉革命以降に発展した思想で、民主的な近代国家制度の提唱がさまざまな知識人からなされました。その代表的な人物を紹介します。
ロック
ロックは名誉革命の時期のイギリス人の哲学者です。彼は統治二論(とうちにろん)を発表します。その内容とは、『国家は人民の自然権(生命・財産・自由)を守るという目的により存在する』『政府が人民の自然権を侵害することがあれば、人民には政府に抵抗し、それを覆す権利がある』といったものです。要するに、国は人々の基本的人権を守り、守られない際に抵抗・革命をする権利があるのだ、という事を訴えました。
これは正しく、独立戦争やフランス革命の大義となっています。
モンテスキュー
モンテスキューは17世紀半ばに活躍したフランスの思想家です。彼は法の精神という著書を発表していますが、その中で『権力は分立させるべきである』という提言をしています。権力が一極集中している状態では、政治が暴走した時に歯止めがきかなくなってしまうから、いくつかに分けるべきと言っており、これは後にアメリカ合衆国憲法やフランス革命での憲法制定時に参考にされました。
ルソー
ルソーは17世紀半ばに活躍したフランスの学者です。彼は社会契約論(しゃかいけいやくろん)を発表しました。『人間社会は自由で平等な個人間の相互の契約が基となっている』という事を発表し、誰もが自由で平等であることを説きました。これは国王によって国の体制が形成されているという絶対王権の考え方や、キリスト教的な世界観を否定するものでした。その後に発表された人権宣言は、ルソーの思想を基に作成されています。
ヨーロッパの絶対王政と市民革命について理解できましたか?
絶対的な権力を持って独裁していた国王を市民が革命によって倒す流れを感じられたと思います。
時代の流れをつかんだうえで、重要語句の暗記を進めましょう!